8/30/2023

俳句短歌誌『We』第16号 2023年9月 掲載10句より抜粋

「お化け」10句 早舩煙雨 ※一部抜粋


 富士の山なぜ頸に性器を創らざる

 隣家の悲鳴 百合

 食卓にお化け一輪朝になる


(俳句短歌誌『We』第16号 2023年9月 掲載10句より)



8/04/2023

自由律俳句『青穂』2023年8月号 no.49 掲載5句より抜粋


雨と たまたま何に出会えてきたのかと   早舩煙雨


ボール高く蹴れば笑う 教会白し    早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2023年8月号 no.49 掲載5句より抜粋)



8/02/2023

芯を捉えていそうなことばを集めるだけでは物足りないのだろうか


【以下、メモ的な内容であり、読みづらい部分があれば申し訳ありません。】

ことばが、そのことばで示そうとするものごとを、うまく示したり捉えたりできたことがあったのかと考えると、残念なことばかりなのではないか。

個人的にぱっと思いつく中で、発音・語感としてこれは”ある程度”芯を捉えているのではいかという日本語の言葉は、下記のいくつかがあった。どうもこうも、もう少し増やそうとしても喃語とオノマトペばかりになってしまいそうだ。


・まま

・おい

・うん

・ああ

・おもい(重い)

・ない

・ひらひら

・ふわふわ

・ふふふ

・べちゃべちゃ

・しーん

・パタパタ

・ぴたっ

・ちゅ~

・ぱくっ


これらのことばは、それが捉らえよう/伝えようとするものごとを一定度合いは、音・語感として上手にかたどっている気がした。

しかし、無理がある言葉は、その言葉の枠がいびつで、捉えられるものごとがその枠に無理やり押し込まれたり、一部を切り落されてしまう際に、骨折/流血状態になっている。

春、うし、青い、かえる、男女、時間、こんにちは、と適当にいくつか挙げてみると、どれも大流血していたり、完全に肩幅があっていない安物スーツを着ているセールスマンのように思える。

その点で、ことばは便利だが、強制力が有って暴力的な面があるとも言える。詩はそんな言葉自体を再度いびつにしたり組み合わせたりして、もともと捉えたかったものごとに合わせて修正する作業のような場合がある。

ことばがそもそも無理なことを試みていて、暴力性を持つものだと意識していればまだマシだが、それを意識していない場合で、しかも俳句のように文字数まで制限をしたら、鬼に金棒というか、暴力on暴力(しかし野蛮なことに、感覚快を与えることすらある。)となる可能性もある。ことばがそもそも無理があるけど便利だったり、それくらいしか文章系の作家には手持ちがないのかと思っていないと危険なのかもしれない。

では逆に、ことばの暴力性をなるべく排除しながら(そのことば自体で既に多少は芯を捉えていそうなことばだけを用いながら)、律もなるべく暴力性を排除したらどうなるのだろうか。例えば一行詩(自由律俳句?)としてこんな感じはどうか。


まま うん まーま ふふふ うん


ひらひら ぴたっ しーん・・ そわそわ・・ ぱたぱたぱた


これはこれで作っていて楽しい気もしたが、意外に自由な気がしない。それは、使える要素が減ってしまって、単独のことば自体に頼るのは狭い世界になりがちだということなのだろうか。いびつなことばや、その接着剤の助詞などを、自分は欲しているのだろうか。

暴力性のあることば(対象の芯を捉えられていないような単語)を再度枠を内側・外側から打ち直したり(喩えによる、意味の拡充・飛躍?)、別の言葉をうまくあてがって違う形の枠を作ってあげたり(取り合わせや造語も含む)、字の見た目、順序、韻律、論理の飛躍などのいくつかが含まれることが、詩として必要な要素だということなのだろうか。それは、絶対なのか。

いい答えが出なくて、それこそそわそわとするのだが、すべての言葉が芯をくっていたらそもそも詩は不要?もしくは少なくとも一部の目的が無くなるかもしれない。宮大工が木・木材の個性を活かして建物を建てるように、それぞれの言葉の意味・響きなどのいびつさがあることを活かせることができれば、作り手としても読み手としても、きっと楽しいことだろう。

そしてもし、とある木片/木材そのものに美しさを感じてそれ自体を完成品とみなしたら、それはいったいどういうことになるのだろうか。たまたま出逢ったことば(自然にぽつりと出てきたことばや、造語も含む)に何かすでに存在する良さを見出せたなら、何も手を入れず、それをぽつんと置いたような詩・句を作ってもよいのかもしれない(それは、博学であることを鼻に掛けたり、難解さを分かったフリして自慢をしているような使い方とは違う)。その時は、宮大工としてではなくて、その木片を見つけた発見者として、その木片に対峙することになるのだが、そうなったらなるべく傷付けないようにご神体のように崇めてしまうかもしれない。それも詩人の仕事に含まれるとしたら、単に既に一次加工された木材を与えられて作業をする従事者(それ自体悪いことではないが)や、原材料のいびつさをも活かす宮大工のような創造的な仕事人、そこに追加して重大な何かを発見する者・崇拝する者・謙虚な伝達者、という面もあるのだろう。