今年の夏のこと。所属している自由律俳句結社「青穂」のブログで久坂夕爾さんが言及されていた宗左近のことが気になり、宗左近の著作を幾つか読んでいた。その中で、縄文文化と通底する芸術品として能面の癋見(べしみ)が例示されていた。癋見についての宗左近の論考を読んでからというもの、仕事を終えてから夜な夜な能面の画像をインターネットで検索をしてしまう日々が続き、様々な種類の能面の画像に見入ってしまった。能という芸術形式・作品を理解する前に、能面そのものに興味を持つようになってしまったようだ。
能のことは全く分からず、学生時代に1度ほど地元のホールで上演されているのを軽い気持ちで観に行ってみた程度で、内容もほぼ覚えていなかったにも関わらず、なぜ能面に魅かれたのだろうか。自己分析はあまりしていないのだが、しばらく俳句という創作をしてきたから何か共鳴するようになったのかもしれないし、能面独特の中間表情(見る角度や状況によってどの表情ともとれるような、曖昧な表情)が今まで仕事で関わってきた方々や、家族・友人などの色んな表情のエッセンスのように思えて、脳裏にこびりつき易くなったのかもしれない。
とにかく「能面打ちをやってみたい」という気持ちが湧き、ネットオークションで能面に関する古本や、安い中古の鑿のセット、能面打ち練習者用の木材やらを衝動買いしてしまった。また、仕事先から東京に行けるお盆付近のタイミングを利用し、能面師の方が東京都内でやっている教室に見学に行くことにした。能面打ち自体も面白そうだし、それを通じて何か新しい創作が出来ないか、または俳句に通じる何らかの経験を得られるのではないかという軽い(甘い)気持ちがあった。
その能面教室の先生は、国指定重要無形文化財(人間国宝)である長澤氏春氏に師事された方で、非常に優しく、自然体で温かい方であった。3名ほどの生徒の皆様が、それぞれ面を彫ったり色付けをされていた。黙々と集中する中でも、なぜだろうか生徒の皆さんが楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。生徒の方が先生に対して「この顎の部分を彫る時はどうやったらよいでしょうか」と聞くと、先生が優しく説明しながら一部の彫りを手伝って見せて、「こんな感じかな。失敗してもある程度修正手伝えるから言ってね。」と言いながら、面を生徒さんに手渡していた。
その一部始終の先生の手つきは、想像していたような具合と違って、集中力の中にも自然な脱力があるように思えた。自分が想像していたのは、棟方志功のドキュメンタリー映像で見た、まるで何かが憑依した炎のように、木材に心も身体ものめり込むように彫っているイメージだった。しかし、先生が木材に対して彫刻刀を動かしているのを見た時には、暗闇に小さな焚き火を見つめている時のような、もしくは、動物に優しく声を掛けながらその心音を聞いている獣医師を前にしているような感覚を覚えた。
小面、翁、般若、橋姫、童子あたりの現物の能面を見せて頂いた。触っても良いとのことだったが、かなり古いもののようで、面の色彩の掠れがあったり、耳横にひもを通す穴には紐が擦れた跡などがしっかり残っていた。恐る恐る触れて、一種のブラックホールのような迫力のある裏面を見たり、毛の一本一本の丁寧な描き方も拝見した。
「かなり使い込まれた年代物ですよね。これは触るのが恐れ多いです。」と言うと、
「いや、これは少し前に作ったやつかなあ」と先生が答えた。
「あ、じゃあこれが実際の能で使われてたんですね。」
「あ~いや、見本用にしてるぐらいでね。」
・・どうやら何か自分の理解が間違っているらしい。
話を聞くと、耳横の紐が擦れた跡は、室町時代以降で残っている名作を忠実に再現しているだけとのこと。ただその忠実度合いが想定外で、髪の毛一本一本の太さや流れ方も、紐の擦れ跡も、残っている名作を見本として作成し、古色液などを使って使用感を出している。かつては煤を用いて手垢や古びた色味を再現する方法もあったらしい。能面は既に名作が存在する為、その”古び”を含めて完全模倣を目指すものであり、“基本的に”創作は皆無なのだった。
見学に行く前は、見学をしたら何か自分の俳句などの創作にもちょっと参考になるかなというような安易な考えを持っていたが、そんな甘いものではなく、喝を喰らったような衝撃があった。そもそも私の勉強・知識不足だったというだけでもあるのだが、能面は舞台芸術の道具であり、伝統工芸品でもあると考えれば、確かに過去の名作をコピーするというのは自然なことだろう。だが、能面に魅入ったということは、能面自体になにか芸術としての良さを感じたということだから、自分自身にとって、能面が単なる道具という見え方は一側面に過ぎない状態になっている。勝手に自分が抱いた能面打ちのイメージと、実際の能面打ちとが乖離したような気がした。ただ、がっかりというよりは嬉しい驚きで、この乖離をそのまま受け入れてみて、乖離の間に何が存在するのかを知らないと次に進めないのだろうという感覚があった。
後日、長澤氏春氏と渡会恵介氏による著作『面打ち入門』(日貿出版社)を入手して読んだところ「模作でありながら本面を凌ぐというのは、現代の面打ち師の心がけねばならぬことでしょう。」(p38)という厳しい言葉がサラッと書いてあった。これは「名作の完全模倣」という作業に隠されたテーマである。模倣の奥を突き抜けた時に、その地平線の奥が見えてくるはず。創作が許される範囲の広い芸術形式であれば、創作を通じてその地平線の奥へ辿り着くこともあるだろうし、模倣という掘削作業により貫通することで達することも出来るのかもしれない。俳句を詠む場合には創作・オリジナリティが重要なのではと自分は思っていたのだが(詠む目的や、真善美などの基準の方がさらに高次で重要な事柄ではあろうが)、それは一つの方法に過ぎないということを能面から学ばなければならないのかもしれない。時間があれば、いつか能面打ち教室に通って、もう少し確かめてみたいところである。
最後に、自由律俳句で能面に関する句を探したら、かつて海紅で活躍されていた吉川金次の句を見つけた。吉川金次は鋸職人であり、鋸等の研究者でもあり、プロレタリア運動に加わった自由律俳句作家でもあり、しかも能面打ちもされていたとのこと。今回挙げていない他の句も含めて鑑みると、下記の句にある嫉妬の面とは「泥眼」という能面のことかと思われる。
堤の草がいつまでも青くて嫉妬の面の美しく 吉川金次
白砥やわらかい耳鳴りを忘れ鑿を研ぐ 吉川金次
(参照元:自由律俳句結社「海紅」ホームページ)
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