2/19/2023

伊藤みどり自由律俳句集『青葉あかり』(昭和63年刊行)を読んで

少し気になっていた自由律俳人として、かつて層雲に所属されていた伊藤みどり氏(明治39年生~昭和62年没)がいた。伊藤みどり氏の句集『青葉あかり』は非売品で、国会図書館に行ってようやく読むことが出来た。


 過ぎて来たことも、白い雨がふっている(昭和6年)

 庖丁さしへ庖丁をおさめ冬さめみだるるまま(昭和7年)

 ふっとたのしくふっとかなしく爪のいろ(同上)

 梨のはなそれをかんがえないのではない(昭和8年)

 こんな夜風の中へ心臓が逃げてゆくのではあるまいか(昭和10年)

 老夫がくりやにいる音の雪となる(昭和38年)


昭和10年以降、戦争の状況等からか、しばらく句が少なくなる時期があり、のちにまた句の数が増えるが、句風がかなり変わっていた。層雲句集は放哉さんの影響なのか月・海・夕暮れ・孤独・咳・病などを主題にしている同人の句が多く、それとは対照的に伊藤みどり氏の初期は葛藤している心も含めて切れ味よく自由に詠んでいて、異彩を放っているように個人的には感じた。他の層雲同人も、感情を表す言葉や、副助詞「も」、リフレインを抵抗なく使う傾向(時折、安易に)があるが、伊藤みどり氏のそれは、より練られてから用いられている気がする。この種の鍛錬・推敲度合いや、句のリズム感、イメージの飛ばし具合からすると、直接自由律俳句を始めたというよりは、先に定型俳句を経験していたのではないかなという印象もあった。

ネット上で検索してもこの方の情報が全然出て来ないのだけれど、私は伊藤みどり氏の上記の句や、他の著名な俳人の真似をせず自分自身の言葉で心情を描き出す姿(それは辛さも伴ったはず)はとてもかっこいいと思う。


[2023/2/24追記]

下記の句も、伊藤みどり氏によるもの。

・松の枝どこかで時計がうつてゐるのがあさ

前回記載した複数の句を含めて、「どこかで」「ふっと」「かんがえないのではない」「あるまいか」などの言葉遣いから、自らの認識・感覚・思考に対して不信感が伺える(私の選句の仕方が原因かもしれないが・・)。これはネガティブな意味だけでなく、このような人間の認識能力の乱れ、不正確さ、不安定さを残したままの方が、むしろ”より正確に”本人のいる(感じる)世界そのものに近づけて描けるのではないかという目論見・意志を感じる(印象派的とも言えるかもしれないが、そのあたりはよく分からない)。メタの視点で、わざと自分の認識の曖昧さを文字に起こして句に突っ込んでいる。これは正確にこの世や心を認識できない(のであろう)という悲しい前提があるが、それを肯定したい、共有したい、分かって欲しい、助けてほしいという祈りの部分もあると思う(それは人間のほとんどの行為に該当するかもしれないが)。

認識・言葉以前のものごとがあると仮定して(その存在を疑っている思想を持っていても、それを仮定せざるを得ないのではと私個人は思っている)、それに迫ろうとする時、祈ってみるとか、絶叫してみるとか、思考停止してみるとか、ぼんやりしているままを受け止めるとか、確実に認識可能な範囲を整理することで認識以前のものを炙り出す(理性批判?)とか、自動筆記とか、取り合わせを用いるとか、機械や薬などの外的な機能に頼ってみるとか、敢えて諦めて徹底的に現実的になるとか、超越的な絶対者を持ち出すとか(場合によっては思考停止と同様か?)、更には自殺とか、色んな試みがあるであろうが(その目的に合致する本質的な成功を伴った試みがかつてあったのかどうかはさておき)、この伊藤みどり氏の場合は、ぼんやりしているままを受け止めてみる、ということなのだろうか。

自由律俳句はリズムや言葉選び・言葉削りなどは手間が掛かるが、文字数合わせで無理して熟語を使わなくてよく、訓読みや大和言葉で詠みやすいので、この伊藤みどり氏のように人事や心境、認識の不安自体を「ぼんやりしているままを受け止める」方針で詠むには適した文学形式かもしれない。伊藤みどり氏の句は、単なる手習いの趣味俳句ではないだろうと思うので、捉えたいものごとや心情と、それを表現するための自由律俳句の形式とが、ご本人の人生のなかで出会うことが出来てとてもよかったのではないかと他人ながら勝手に嬉しく感じている。

「老夫がくりやにいる音の雪となる(昭和38年)」も自由なリズムで優しく詠まれているが、やはり「・・音の雪となる」という認識のぼやけ・にじみをそのままにしている。私はその作家自体の背景や歴史(酒飲みだった、エリートだった、放浪した、病気持ちだった、美男・美女だった等)などは正直あまり興味が無くて作品自体を観たいのだが、初期のあの葛藤を読み込んだ句とは全く違う平穏がこの「老夫・・」の句に感じられて、「ああ良かったなあ」という気持ちが湧いた。読者として勝手な想像をして、勝手にほっとしているだけなので、そもそもこの鑑賞自体が全部勘違いの塊で、鑑賞力や文章力自体も低くてどうしようもないかもしれないのだが、その俳人が1冊しか出していない編年体の句集を読むと、そういう点も勝手に想像してしまう読者がたまたまここにおりましたということで、お許し頂きたい。

もちろん今回挙げた句とは全然雰囲気の違う句も沢山含まれている句集なので、気になる方は国会図書館で読んでみて下さい。

早舩煙雨

0 件のコメント:

コメントを投稿