12/07/2023

能面打ち


 今年の夏のこと。所属している自由律俳句結社「青穂」のブログで久坂夕爾さんが言及されていた宗左近のことが気になり、宗左近の著作を幾つか読んでいた。その中で、縄文文化と通底する芸術品として能面の癋見(べしみ)が例示されていた。癋見についての宗左近の論考を読んでからというもの、仕事を終えてから夜な夜な能面の画像をインターネットで検索をしてしまう日々が続き、様々な種類の能面の画像に見入ってしまった。能という芸術形式・作品を理解する前に、能面そのものに興味を持つようになってしまったようだ。

 能のことは全く分からず、学生時代に1度ほど地元のホールで上演されているのを軽い気持ちで観に行ってみた程度で、内容もほぼ覚えていなかったにも関わらず、なぜ能面に魅かれたのだろうか。自己分析はあまりしていないのだが、しばらく俳句という創作をしてきたから何か共鳴するようになったのかもしれないし、能面独特の中間表情(見る角度や状況によってどの表情ともとれるような、曖昧な表情)が今まで仕事で関わってきた方々や、家族・友人などの色んな表情のエッセンスのように思えて、脳裏にこびりつき易くなったのかもしれない。

 とにかく「能面打ちをやってみたい」という気持ちが湧き、ネットオークションで能面に関する古本や、安い中古の鑿のセット、能面打ち練習者用の木材やらを衝動買いしてしまった。また、仕事先から東京に行けるお盆付近のタイミングを利用し、能面師の方が東京都内でやっている教室に見学に行くことにした。能面打ち自体も面白そうだし、それを通じて何か新しい創作が出来ないか、または俳句に通じる何らかの経験を得られるのではないかという軽い(甘い)気持ちがあった。

癋見(べしみ)

 その能面教室の先生は、国指定重要無形文化財(人間国宝)である長澤氏春氏に師事された方で、非常に優しく、自然体で温かい方であった。3名ほどの生徒の皆様が、それぞれ面を彫ったり色付けをされていた。黙々と集中する中でも、なぜだろうか生徒の皆さんが楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。生徒の方が先生に対して「この顎の部分を彫る時はどうやったらよいでしょうか」と聞くと、先生が優しく説明しながら一部の彫りを手伝って見せて、「こんな感じかな。失敗してもある程度修正手伝えるから言ってね。」と言いながら、面を生徒さんに手渡していた。

 その一部始終の先生の手つきは、想像していたような具合と違って、集中力の中にも自然な脱力があるように思えた。自分が想像していたのは、棟方志功のドキュメンタリー映像で見た、まるで何かが憑依した炎のように、木材に心も身体ものめり込むように彫っているイメージだった。しかし、先生が木材に対して彫刻刀を動かしているのを見た時には、暗闇に小さな焚き火を見つめている時のような、もしくは、動物に優しく声を掛けながらその心音を聞いている獣医師を前にしているような感覚を覚えた。

 小面、翁、般若、橋姫、童子あたりの現物の能面を見せて頂いた。触っても良いとのことだったが、かなり古いもののようで、面の色彩の掠れがあったり、耳横にひもを通す穴には紐が擦れた跡などがしっかり残っていた。恐る恐る触れて、一種のブラックホールのような迫力のある裏面を見たり、毛の一本一本の丁寧な描き方も拝見した。

「かなり使い込まれた年代物ですよね。これは触るのが恐れ多いです。」と言うと、

「いや、これは少し前に作ったやつかなあ」と先生が答えた。

「あ、じゃあこれが実際の能で使われてたんですね。」

「あ~いや、見本用にしてるぐらいでね。」

 ・・どうやら何か自分の理解が間違っているらしい。

 話を聞くと、耳横の紐が擦れた跡は、室町時代以降で残っている名作を忠実に再現しているだけとのこと。ただその忠実度合いが想定外で、髪の毛一本一本の太さや流れ方も、紐の擦れ跡も、残っている名作を見本として作成し、古色液などを使って使用感を出している。かつては煤を用いて手垢や古びた色味を再現する方法もあったらしい。能面は既に名作が存在する為、その”古び”を含めて完全模倣を目指すものであり、“基本的に”創作は皆無なのだった。

 見学に行く前は、見学をしたら何か自分の俳句などの創作にもちょっと参考になるかなというような安易な考えを持っていたが、そんな甘いものではなく、喝を喰らったような衝撃があった。そもそも私の勉強・知識不足だったというだけでもあるのだが、能面は舞台芸術の道具であり、伝統工芸品でもあると考えれば、確かに過去の名作をコピーするというのは自然なことだろう。だが、能面に魅入ったということは、能面自体になにか芸術としての良さを感じたということだから、自分自身にとって、能面が単なる道具という見え方は一側面に過ぎない状態になっている。勝手に自分が抱いた能面打ちのイメージと、実際の能面打ちとが乖離したような気がした。ただ、がっかりというよりは嬉しい驚きで、この乖離をそのまま受け入れてみて、乖離の間に何が存在するのかを知らないと次に進めないのだろうという感覚があった。

『面打ち入門』(日貿出版社)

 後日、長澤氏春氏と渡会恵介氏による著作『面打ち入門』(日貿出版社)を入手して読んだところ「模作でありながら本面を凌ぐというのは、現代の面打ち師の心がけねばならぬことでしょう。」(p38)という厳しい言葉がサラッと書いてあった。これは「名作の完全模倣」という作業に隠されたテーマである。模倣の奥を突き抜けた時に、その地平線の奥が見えてくるはず。創作が許される範囲の広い芸術形式であれば、創作を通じてその地平線の奥へ辿り着くこともあるだろうし、模倣という掘削作業により貫通することで達することも出来るのかもしれない。俳句を詠む場合には創作・オリジナリティが重要なのではと自分は思っていたのだが(詠む目的や、真善美などの基準の方がさらに高次で重要な事柄ではあろうが)、それは一つの方法に過ぎないということを能面から学ばなければならないのかもしれない。時間があれば、いつか能面打ち教室に通って、もう少し確かめてみたいところである。

 最後に、自由律俳句で能面に関する句を探したら、かつて海紅で活躍されていた吉川金次の句を見つけた。吉川金次は鋸職人であり、鋸等の研究者でもあり、プロレタリア運動に加わった自由律俳句作家でもあり、しかも能面打ちもされていたとのこと。今回挙げていない他の句も含めて鑑みると、下記の句にある嫉妬の面とは「泥眼」という能面のことかと思われる。


  堤の草がいつまでも青くて嫉妬の面の美しく  吉川金次

  白砥やわらかい耳鳴りを忘れ鑿を研ぐ     吉川金次


(参照元:自由律俳句結社「海紅」ホームページ)

http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/?page_id=1996


12/01/2023

『ぬかるみ派』vol.3 特集=絶滅の世代 掲載20句より抜粋

「何か建ててる」20句 早舩煙雨 ※一部抜粋


  春雷ごみ袋がこっちを見てる気がするんですよね


  擬死や  宝島


  ドガガガ・・「ねぇ・・にを建て・・・の?」「・・・・あ?」ガガガガ・・


(『ぬかるみ派』vol.3 特集=絶滅の世代 掲載20句より)


 





10/28/2023

自由律俳句『青穂』2023年11月号 no.50 掲載5句より抜粋


 鑿置き 自ず          早舩煙雨


 はじまりもおわりも紺滲む    早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2023年11月号 no.50 掲載5句より抜粋)



8/30/2023

俳句短歌誌『We』第16号 2023年9月 掲載10句より抜粋

「お化け」10句 早舩煙雨 ※一部抜粋


 富士の山なぜ頸に性器を創らざる

 隣家の悲鳴 百合

 食卓にお化け一輪朝になる


(俳句短歌誌『We』第16号 2023年9月 掲載10句より)



8/04/2023

自由律俳句『青穂』2023年8月号 no.49 掲載5句より抜粋


雨と たまたま何に出会えてきたのかと   早舩煙雨


ボール高く蹴れば笑う 教会白し    早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2023年8月号 no.49 掲載5句より抜粋)



8/02/2023

芯を捉えていそうなことばを集めるだけでは物足りないのだろうか


【以下、メモ的な内容であり、読みづらい部分があれば申し訳ありません。】

ことばが、そのことばで示そうとするものごとを、うまく示したり捉えたりできたことがあったのかと考えると、残念なことばかりなのではないか。

個人的にぱっと思いつく中で、発音・語感としてこれは”ある程度”芯を捉えているのではいかという日本語の言葉は、下記のいくつかがあった。どうもこうも、もう少し増やそうとしても喃語とオノマトペばかりになってしまいそうだ。


・まま

・おい

・うん

・ああ

・おもい(重い)

・ない

・ひらひら

・ふわふわ

・ふふふ

・べちゃべちゃ

・しーん

・パタパタ

・ぴたっ

・ちゅ~

・ぱくっ


これらのことばは、それが捉らえよう/伝えようとするものごとを一定度合いは、音・語感として上手にかたどっている気がした。

しかし、無理がある言葉は、その言葉の枠がいびつで、捉えられるものごとがその枠に無理やり押し込まれたり、一部を切り落されてしまう際に、骨折/流血状態になっている。

春、うし、青い、かえる、男女、時間、こんにちは、と適当にいくつか挙げてみると、どれも大流血していたり、完全に肩幅があっていない安物スーツを着ているセールスマンのように思える。

その点で、ことばは便利だが、強制力が有って暴力的な面があるとも言える。詩はそんな言葉自体を再度いびつにしたり組み合わせたりして、もともと捉えたかったものごとに合わせて修正する作業のような場合がある。

ことばがそもそも無理なことを試みていて、暴力性を持つものだと意識していればまだマシだが、それを意識していない場合で、しかも俳句のように文字数まで制限をしたら、鬼に金棒というか、暴力on暴力(しかし野蛮なことに、感覚快を与えることすらある。)となる可能性もある。ことばがそもそも無理があるけど便利だったり、それくらいしか文章系の作家には手持ちがないのかと思っていないと危険なのかもしれない。

では逆に、ことばの暴力性をなるべく排除しながら(そのことば自体で既に多少は芯を捉えていそうなことばだけを用いながら)、律もなるべく暴力性を排除したらどうなるのだろうか。例えば一行詩(自由律俳句?)としてこんな感じはどうか。


まま うん まーま ふふふ うん


ひらひら ぴたっ しーん・・ そわそわ・・ ぱたぱたぱた


これはこれで作っていて楽しい気もしたが、意外に自由な気がしない。それは、使える要素が減ってしまって、単独のことば自体に頼るのは狭い世界になりがちだということなのだろうか。いびつなことばや、その接着剤の助詞などを、自分は欲しているのだろうか。

暴力性のあることば(対象の芯を捉えられていないような単語)を再度枠を内側・外側から打ち直したり(喩えによる、意味の拡充・飛躍?)、別の言葉をうまくあてがって違う形の枠を作ってあげたり(取り合わせや造語も含む)、字の見た目、順序、韻律、論理の飛躍などのいくつかが含まれることが、詩として必要な要素だということなのだろうか。それは、絶対なのか。

いい答えが出なくて、それこそそわそわとするのだが、すべての言葉が芯をくっていたらそもそも詩は不要?もしくは少なくとも一部の目的が無くなるかもしれない。宮大工が木・木材の個性を活かして建物を建てるように、それぞれの言葉の意味・響きなどのいびつさがあることを活かせることができれば、作り手としても読み手としても、きっと楽しいことだろう。

そしてもし、とある木片/木材そのものに美しさを感じてそれ自体を完成品とみなしたら、それはいったいどういうことになるのだろうか。たまたま出逢ったことば(自然にぽつりと出てきたことばや、造語も含む)に何かすでに存在する良さを見出せたなら、何も手を入れず、それをぽつんと置いたような詩・句を作ってもよいのかもしれない(それは、博学であることを鼻に掛けたり、難解さを分かったフリして自慢をしているような使い方とは違う)。その時は、宮大工としてではなくて、その木片を見つけた発見者として、その木片に対峙することになるのだが、そうなったらなるべく傷付けないようにご神体のように崇めてしまうかもしれない。それも詩人の仕事に含まれるとしたら、単に既に一次加工された木材を与えられて作業をする従事者(それ自体悪いことではないが)や、原材料のいびつさをも活かす宮大工のような創造的な仕事人、そこに追加して重大な何かを発見する者・崇拝する者・謙虚な伝達者、という面もあるのだろう。


5/07/2023

自由律俳句『青穂』2023年5月号 no.48 掲載5句より抜粋

 

改札を通る なぞなぞになったまま    早舩煙雨


セコイア 肌ばかりがあった憶えを    早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2023年5月号 no.48 掲載5句より抜粋)



第三回G氏賞提出作品 「笄蛭」早舩煙雨(落選)

髙鸞石氏主催のG氏賞に作品を提出しましたが、落選でした。

ストレートに丁寧に評を頂けたことに、感謝です。


■応募作品一覧

悪霊研究 : 第三回G氏賞 「はじめに」 「応募作品一覧」 (livedoor.blog)

http://evilspiritlab.livedoor.blog/archives/20084246.html

 ※私の作品は16番目に該当作品50句が掲載されています。


■選評・結果

悪霊研究 : 第3回G氏賞 選評・結果 (livedoor.blog)

http://evilspiritlab.livedoor.blog/archives/22366507.html


3/14/2023

全国俳誌協会第4回新人賞提出作品「揮発」15句 早舩煙雨(落選)※『俳句展望』2023年春に一部掲載 

 「揮発」 15句  早舩煙雨


口腔のあなたの雨に触れるとき


水銀 古き桃を切る者のいて


銀行や 笑顔の女 笑顔の女 


気が触れて生まれて落ちてくるウズラ


どうせギターの穴の中だけが睦まじい


外来の青蛙放たれ 罪とは揮発性である


喉奥の空欄埋める植樹祭


バンドネオン 白い壁には脚が生え


髄膜炎 やらしい指輪 やらしい椅子


バカ向けのガム噛むバカ向けの案山子立ち


脳幹に忘れた日陰がある小鳥


透ける君に古めかしい山珊瑚がある


ボールを蹴りどこからが私なんだろう


泣く母よ 中耳に積み木積みあがっていく


今日が今日だなんて バター溶けている


(2022年7月全国俳誌協会 第4回新人賞提出作品 「揮発」早舩煙雨(落選)、『俳句展望』2023年春(第198号)に一部のみ掲載)


3/02/2023

俳句短歌誌『We』第15号 2023年3月 掲載15句より抜粋

 『無題』15句 早舩煙雨 ※一部抜粋


 残菊やめちゃくちゃ普通の車で来る

 冒涜としてパンに顔 雨降りやがる

 東風 偽ウォーレン・バフェットからメール来る

 蓄電湖 君は割り箸をしゃぶっている

 おじさんの中の少女や磁気嵐


(俳句短歌誌『We』第15号 2023年3月 掲載15句より)

※一部抜粋にてブログへ掲載するのは問題無い旨、確認済みです。



2/20/2023

第六回尾崎放哉賞 敢闘賞受賞 2023年2月発表 提出句より抜粋

また会えるから舌べろを出している     早舩煙雨


プールから出る 肌と言う線を引かれ   早舩煙雨



※1句目側で尾崎放哉賞の敢闘賞を受賞。

(第六回尾崎放哉賞 2023年2月発表 提出句より抜粋)

2/19/2023

伊藤みどり自由律俳句集『青葉あかり』(昭和63年刊行)を読んで

少し気になっていた自由律俳人として、かつて層雲に所属されていた伊藤みどり氏(明治39年生~昭和62年没)がいた。伊藤みどり氏の句集『青葉あかり』は非売品で、国会図書館に行ってようやく読むことが出来た。


 過ぎて来たことも、白い雨がふっている(昭和6年)

 庖丁さしへ庖丁をおさめ冬さめみだるるまま(昭和7年)

 ふっとたのしくふっとかなしく爪のいろ(同上)

 梨のはなそれをかんがえないのではない(昭和8年)

 こんな夜風の中へ心臓が逃げてゆくのではあるまいか(昭和10年)

 老夫がくりやにいる音の雪となる(昭和38年)


昭和10年以降、戦争の状況等からか、しばらく句が少なくなる時期があり、のちにまた句の数が増えるが、句風がかなり変わっていた。層雲句集は放哉さんの影響なのか月・海・夕暮れ・孤独・咳・病などを主題にしている同人の句が多く、それとは対照的に伊藤みどり氏の初期は葛藤している心も含めて切れ味よく自由に詠んでいて、異彩を放っているように個人的には感じた。他の層雲同人も、感情を表す言葉や、副助詞「も」、リフレインを抵抗なく使う傾向(時折、安易に)があるが、伊藤みどり氏のそれは、より練られてから用いられている気がする。この種の鍛錬・推敲度合いや、句のリズム感、イメージの飛ばし具合からすると、直接自由律俳句を始めたというよりは、先に定型俳句を経験していたのではないかなという印象もあった。

ネット上で検索してもこの方の情報が全然出て来ないのだけれど、私は伊藤みどり氏の上記の句や、他の著名な俳人の真似をせず自分自身の言葉で心情を描き出す姿(それは辛さも伴ったはず)はとてもかっこいいと思う。


[2023/2/24追記]

下記の句も、伊藤みどり氏によるもの。

・松の枝どこかで時計がうつてゐるのがあさ

前回記載した複数の句を含めて、「どこかで」「ふっと」「かんがえないのではない」「あるまいか」などの言葉遣いから、自らの認識・感覚・思考に対して不信感が伺える(私の選句の仕方が原因かもしれないが・・)。これはネガティブな意味だけでなく、このような人間の認識能力の乱れ、不正確さ、不安定さを残したままの方が、むしろ”より正確に”本人のいる(感じる)世界そのものに近づけて描けるのではないかという目論見・意志を感じる(印象派的とも言えるかもしれないが、そのあたりはよく分からない)。メタの視点で、わざと自分の認識の曖昧さを文字に起こして句に突っ込んでいる。これは正確にこの世や心を認識できない(のであろう)という悲しい前提があるが、それを肯定したい、共有したい、分かって欲しい、助けてほしいという祈りの部分もあると思う(それは人間のほとんどの行為に該当するかもしれないが)。

認識・言葉以前のものごとがあると仮定して(その存在を疑っている思想を持っていても、それを仮定せざるを得ないのではと私個人は思っている)、それに迫ろうとする時、祈ってみるとか、絶叫してみるとか、思考停止してみるとか、ぼんやりしているままを受け止めるとか、確実に認識可能な範囲を整理することで認識以前のものを炙り出す(理性批判?)とか、自動筆記とか、取り合わせを用いるとか、機械や薬などの外的な機能に頼ってみるとか、敢えて諦めて徹底的に現実的になるとか、超越的な絶対者を持ち出すとか(場合によっては思考停止と同様か?)、更には自殺とか、色んな試みがあるであろうが(その目的に合致する本質的な成功を伴った試みがかつてあったのかどうかはさておき)、この伊藤みどり氏の場合は、ぼんやりしているままを受け止めてみる、ということなのだろうか。

自由律俳句はリズムや言葉選び・言葉削りなどは手間が掛かるが、文字数合わせで無理して熟語を使わなくてよく、訓読みや大和言葉で詠みやすいので、この伊藤みどり氏のように人事や心境、認識の不安自体を「ぼんやりしているままを受け止める」方針で詠むには適した文学形式かもしれない。伊藤みどり氏の句は、単なる手習いの趣味俳句ではないだろうと思うので、捉えたいものごとや心情と、それを表現するための自由律俳句の形式とが、ご本人の人生のなかで出会うことが出来てとてもよかったのではないかと他人ながら勝手に嬉しく感じている。

「老夫がくりやにいる音の雪となる(昭和38年)」も自由なリズムで優しく詠まれているが、やはり「・・音の雪となる」という認識のぼやけ・にじみをそのままにしている。私はその作家自体の背景や歴史(酒飲みだった、エリートだった、放浪した、病気持ちだった、美男・美女だった等)などは正直あまり興味が無くて作品自体を観たいのだが、初期のあの葛藤を読み込んだ句とは全く違う平穏がこの「老夫・・」の句に感じられて、「ああ良かったなあ」という気持ちが湧いた。読者として勝手な想像をして、勝手にほっとしているだけなので、そもそもこの鑑賞自体が全部勘違いの塊で、鑑賞力や文章力自体も低くてどうしようもないかもしれないのだが、その俳人が1冊しか出していない編年体の句集を読むと、そういう点も勝手に想像してしまう読者がたまたまここにおりましたということで、お許し頂きたい。

もちろん今回挙げた句とは全然雰囲気の違う句も沢山含まれている句集なので、気になる方は国会図書館で読んでみて下さい。

早舩煙雨

2/07/2023

自由律俳句『青穂』2023年2月号 no.47 掲載5句より抜粋

バナナ寝る軌条の音に     早舩煙雨


トビウオ飛ぶ 宇宙の外を想うことを許され   早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2023年2月号 no.47 掲載5句より抜粋)

1/23/2023

自由律俳句『青穂』2022年11月号 no.46 掲載5句より抜粋

蚊よ 波打ち際 星空へ 揺れ落ち     早舩煙雨


家族ばかり撮る人のいた部屋に陽が差す   早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2022年11月号 no.46 掲載5句より抜粋)

1/04/2023

自由律俳句『青穂』2022年8月号 no.45 掲載5句より抜粋

蝉、唄えば思い通りになるはずと     早舩煙雨


鉄降り蛙煮え   早舩煙雨


(自由律俳句『青穂』2022年8月号 no.45 掲載5句より抜粋)