3/02/2024

詩・俳句の外国語への翻訳について思うこと

以前に自分の俳句や過去の有名な俳句の外国語への翻訳を何度か試したことがあったが、しばらくそれを止めていた。

いくつか理由があるが主には2点。

・自分の言語能力的に不足があり、明らかな翻訳ミスが発生しやすい

・句の読み手側の自由を妨げる可能性がある(自分の句を外国語に翻訳することは、一種の自句自解に近い。作者が解釈を加えるのは一読者としての意見に過ぎないが、捉え方によっては権威的にもなり得る。俳句を読むことに習熟している方からすれば、作者の意見を無視することにも慣れているかもしれないが。)


しかし、最近は下記の理由で、もっと気楽に外国語に翻訳してもよいのではと思う様になってきた。

・翻訳した句や詩は、新しい独立した詩であるとも考えられるから、純粋な意味伝達だけのための翻訳と考えなくてもよい(元々の詩だけをもってしても、読み手ごとに、読んだ日時ごとに、読み手とその詩の関係において個々の独立した詩が生まれているとすら言える)

・本当にその句、詩が届いた方がよかった人が偶々この世界にいるとすれば、その方にいつか届く可能性が高まる(元々の内容が伝わるかはどうあれ)

・そもそも自身の日本語の語彙力や文法力が不十分で、自国語ですら危ういのにも関わらず俳句を作っているのであるから、いまさら外国語でのミスなどに気を遣う必要が無い(加えて、日本語を含む言語そのものを完璧に使いこなせる人間が存在するとも思えない)

・あわよくば、翻訳を通じて外国語が上手くなることも期待できる


ということで、気が向いたらまた英語なりを交えて自句をブログやX(旧Twitter)に投稿してみようかなと思う。


一応参考で、萩原朔太郎の「詩の翻訳について」も読んでみる。

※カッコ内は引用部分。朱色は私の意見。


「・・・即ち要するに、原詩を原語で示す以外に、翻訳は絶対不可能だといふ結論になる。

翻訳の可能性がある俳句は、連想の内容が極めてすくなく、詩趣が稀薄である代りに、理智的の説明を内容に有する俳句だけである」

⇒「詩趣」と言う言葉の定義に依る。「詩趣」が単に連想の内容の深さ・広さという意味合いで使われているのであれば、著者の言う通りであろう。しかし、一般的な情緒、趣、読者への感慨・驚きをもたらす可能性、真・善・美を基準とする何らかの”良さ”、といった大まかな意味合いで有れば、必ずしもそうではない。これは当時の俳句が現代と比べると未発達であったという前提があるのであろうが、理知的な説明を内容に有する俳句だからといって詩趣が稀薄となるとは限らない。素朴でのっぺりとした散文や、数学の「1=1」という式などにもある種の感動、詩趣を感じることがあると言えないだろうか。

「もつとも詩の特質は、各※(二の字点、1-2-22)の読者に各※(二の字点、1-2-22)の主観的幻想をあたへることに存するのだから、訳詩を通じて、外国人が外国流に勝手なヴィジョンを構成し、勝手な主観的解釈をしたところで、一向に何の差支へもないわけであり、むしろ訳詩の本来の目的がそこに有るとも言へるのである。それ故に本来言へば、詩の翻訳に語学上の詮議は無用で、むしろ訳者自身の個人的主観によつて、自由に勝手に翻案化してしまふ方が好いのである。逆説的に言へば、すべての訳詩は誤訳であるほど好いといふ結論になる。」

⇒同意。すべての訳詩は誤訳であるほど・・というよりは、詩の原文や芸術・あらゆる事象を含めて、感覚的に捉えられる事物は、その読者・感知する側に渡った時点で誤訳・誤読しか存在しない、または正確な知覚や理解が出来ているか確認する方法が無いとも言えるだろう(同様の理由で、正確な理解が出来る希望もゼロではないし、誤読こそ正として見返していくことが普通と捉えれば、絶望する必要も無い。実際に私たちの生活は、そうである。)。

「・・・そこで外国語の詩に就いて、読者の真の知らうと欲するところは、詩の個々の原語や逐字訳的の詩想でなくして、原詩そのものが持つてる直接のポエヂイであり、原詩それ自体の詩的ムードなのである。」

⇒俳句で考えると、字数が少な目であり読者の感覚に委ねられる範囲がとくに広いという特徴から、元の句が持っているポエヂィというものがそもそも絶対的なものではないことも前提として無ければならないか。

「すべての訳詩は、それが翻訳者自身の創作であり、翻案である限りに於て価値を持つてる。・・・訳詩を読む人々への注意は、第一に先づその訳者が、詩人として、文学者として、原作者と同等以上、もしくは同等、もしくは最悪の場合に於てすら、雁行する程度の才能を持つてゐるか否かを見るべきである。」

⇒詩人自ら訳すということについては言及が無いが、詩についてあまり知らないが語学が得意という他の人に変な訳を付けられるよりは、自分で訳した方がまだよいかなと思う。逆に、鴎外による外国文学訳のように、文学を深く理解し、アウトプットも出来てしまう方に訳してもらえるのはその詩と読者にとってありがたいことなのかもしれない。


参照元:https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/48341_35101.html


0 件のコメント:

コメントを投稿