俳句・芸術の評価軸
俳句・詩の形式について、私自身がもっと自由で柔軟でなければならないと思っている。そして、この形式の話の前提として、その芸術形式の中身が問題となる。
俳句を含む芸術を観るときに、整理して細かな判断をしようとする場合には、私は主に真善美の3つの軸の”綜合”で良し悪しを考えている。ただ、真善美といっても厳密な哲学・美学用語として正確な定義が出来るような知識は無いので、暫定として下記のような整理方法に基づいている。
①真⇒真理、偉大さ。(例)超越的存在(の想起)。無限・無。実存。始原。主体、客体、場。正確さ。新しい認識の取得。言語以前・以外。認識そのもの。驚き、発見。
②善⇒倫理、道徳。(例)内容・形式による構築、破戒、基準の問い直し。礼儀。善の直接・間接的な明示や、悪を見せることによる善の想起(反面教師)。政治的価値。プラグマティズム。ナンセンス。
③美⇒感覚快、カタルシス。(例)色彩、映像美。音楽性(響き、リズム、発音)。修辞、字面。共感(意見の代弁、あるある等)。滑稽。自由、権利の行使。独りよがりな美醜。差別、優越感、安心感。性。力。退廃。内容・形式を含む新しさ・古さ。知識欲、開拓欲。
それぞれの軸が重なり合うように存在していて、完全な線引きは不可。例えば、上記①の超越的存在は、それにおいて善と美も兼ねていると定義されるかもしれないし、③の退廃については破戒による善の想起や無の想起などとも言えるからである。
また、具体的な句を上記の軸を用いて観た場合は下記のようになる。
・「閑さや岩にしみ入る蝉の声」ならば、①と③が強く、②はそれほど強くは感じない。
・「咳をしても一人」ならば、③が強く、①が少し、最後に②だろうか。
・「戦争が廊下の奥に立つてゐた」は、①②③のいずれもが、ある程度の強度で含まれるようにも思う。
芸術作品は真善美のどれかに特化してもよいし、全体的に強度があってもよい。ここに、外的な要因として、その芸術を観るときの環境・状況、体調、感覚器の能力、無意識に感じていること、何らかの勘違いなどが加わって、捉えられる範囲・精度・角度が決まり、最終的な判断に繋がっているのだと思われる。
また、多くの場合、鑑賞者側で①~③の基準は異なる場合があるのは当然である。例えば、語彙が豊富で流麗な詩であっても、その詩自体のレベルにより、また、その鑑賞者のレベルや思想により、判断が異なる場合がある。言葉で可能な限り深堀をする為に・芯を捉える為に、必然的に選んだ言葉やレトリックが難解であった場合があっても全く差し支えないが、作者の知識をひけらかすだけに終始して、その対象の事物を射抜いていない場合には、その詩は衒学的な言葉・修辞の掃きだめに過ぎない(その語彙・修辞を用いること自体に別の目的がある場合は除く。例えば、社交目的の句会であったり、その語彙・修辞を使って混乱を招くこと自体が目的の破壊志向の作品である場合など)。鑑賞者によっては、その語彙の豊富さや修辞を快感に感じるひともいるであろうが、内容や目的を見透かせていない限りにおいては、単に鑑賞者のレベルが不足していた為に眺めていた幻想ということだけの場合もある。
上記の判断をする上で、形式とは単なる一要素に過ぎない。俳句である事と芸術である事であれば、芸術である事の方が個人的には重要事項であるので、その一要素に過ぎないものである形式に、足を引っ張られることがあってはならないと思う。
俳句・芸術の形式
とある美術館に、絵画に立体の物体が取り付けられて3Dに飛び出てしまっている絵があり、非常に面白く感じた。キャンバスから飛び出た物体の影が、白い壁に影を落とし、それも一つの象徴にすら思えた。レリーフの一種というよりは、絵画の延長という雰囲気のある作品で、他の平面の絵画が並ぶ中で異常と感じられた。
だが、絵画という形式についてよくよく考えたら、3Dであるのは当然のことではないかとも思う。なぜなら、油絵でも水彩でも、キャンバスの上に何か物体を塗っているのだから、既に3Dとして飛び出しているのだ。単に厚みの度合いや若干素材が違うだけなのだ。違和感を感じたのは、その形式に対してではなく、自身の思い込みに対してだったのではないか。その意味では形式とは鑑賞者側に存在するのだろうか。また、該当の作品を鑑みると、キャンバスの外に影を落とすようにライトを調整したり、壁の色を検討しているであろうことも、”絵画”という芸術形式に含まれている(含まれてよい)とも考えられる。
そもそも絵画が単なる3Dということも、確定的ではない。絵画に近づいたり離れたりすることだけでなく、光の移動や目・神経の情報伝達の為に、時間を掛けてしか鑑賞し得ないのであれば、絵画も四次元の芸術と言えるだろうか。印象に残った絵画は思い出すごとに多少形を変えて、鑑賞者に徐々に浸透していくことがある。単純に音楽を聴く行為よりも鑑賞に時間が掛かる場合も多々あるだろう。作品とはその存在している実物ではなく、対象となる物と鑑賞行為の関係・プロセス全体のことであると考えた方が良いのであろうか、また、前提として時間を1つだけの次元として捉えるのは誤りという話や、宇宙空間を9次元として時間を追加して10次元・・と言った理論があるという話も聞いたことがあったので、立体であること・時間を経る必要があること等を自分の狭い知識で想定して絵画を見るという行為について定義、判断してよいものかも不明だ。
ほとんどのケースで、私は形式を間違えて芸術作品を捉えているのではないか。絵画を絵画と呼ぶことすら、違和感を持ってよいのではないか。この世の全作品が、実はそれぞれ個別の形式を抱えていて、全く同じ形式の作品など無いのではないか。
一定度合いで標準化された形式があると考えた場合でも、必要があれば形式は拡張したり、突然変化(に見えるだけ?)をすることは普通のことである。新しい形式だったからと言って、元々のよくある形式を問うことは眼目ではなく、副産物的なものであるだろう。その新形式は、たまたま内容にとって必要な形式であったに過ぎず、副次的に形式を問うことになってしまい、また、見る側の認識プロセスを整理し直してくれることに繋がっただけと言えるかもしれない。
集団心理のようなものだと思うが、上記の絵画の例を挙げるまでもなく、俳句の形式はそれほどこだわるものでは無いと思う。というのは、そもそも読者の脳がそれを感じ取ったと思い込むまでの流れで、形式はすでに歪まされているはずである。であれば、なぜ形式にそれほどこだわる理由があるのか。その詠みたい事柄によって、そして技術や物理的・環境的な条件などによって、見合った形式がその時々で変わる(変わってしまう)のが本来は当然なのではないか。
文字で掲載されるときに、フォントや画面(紙面なら紙の質や色あい、PCなのか読書用の電子媒体なのかなど)の質だとか、印刷なのか点字なのかなども関わるし、縦書き・横書きも関係がある。文字として読み取る場合と声に出した場合でも変わってくる。最近なら読み上げソフトも使われるかもしれない。そもそも読者の体調とか、気分とか、その日の気候とかにも関わる。
論理に関わることであれば論文で伝えるのがよいかもしれないし(需要の問題で敢えて映像等の別の手段を取ることもあるだろう)、美しい音色・風景で有れば論文よりも音楽や映像がよいだろう。それと同様に、俳句も内容によって5・7・5で有る必要も特に無いし、季語も入れようがどうでもいい。外国語が含まれてもいいし、分かち書きでも、多行でもよい。別の表現手段(画像や音楽)と組み合わせてもいい。それによって、これは俳句ではないと言われることがあれば、それは必然で出来上がった形である限り、本望ではないか。
俳諧の発句である、ということを俳句の大前提として考えるならば、その句を読む人に想像の余地が多少あるほうがよいし、言葉の組み合わせ・飛躍を用いた句ならば、その飛躍の距離感や掛け算の詩情があったほうがよいのかも、程度の話だろう。(詩情、と言う言葉も曖昧ではあるが・・)
形式は変化して問題無い。拡張しても、削り落としても問題ない。技術発展によって、(画材等の物理的な)素材の発見によって、そして必要があれば、形式は大きく影響を受ける。声が無い動物であれば、唄えなかった(唄われるべきことがあった)。棒が持てなければ絵は描けなかった(描かれるべきことがあった)。紙、ペン、印刷・通信技術がなければ、小説や俳句は作り辛かった。そういうことである。必要さえ有れば、また言葉を忘れて、火の前で踊ればよい。
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