沢蟹や土は知ってる気がしてる
沢蟹や水は知らない気がしてる
沢蟹や元々こうだった気がしてる
沢 そんな気がするだけであったとして
(俳句短歌誌『We』第18号 2024年9月 掲載作品より)
沢蟹や土は知ってる気がしてる
沢蟹や水は知らない気がしてる
沢蟹や元々こうだった気がしてる
沢 そんな気がするだけであったとして
(俳句短歌誌『We』第18号 2024年9月 掲載作品より)
上野ちづこの句集『黄金郷』(深夜叢書社、1990年)は、いわゆる自由律俳句を多く含んだ句集である。下記にいくつか挙げてみる。
ねがはれてある 嫋々と海鳴り
瞼から黴る 未明
沼には沼の風 切株になるわたし
電光あはれ 何故くの字なる
ただ、句集内の俳論においても、江里昭彦氏などとのシンポジウムにおいても、ご自身の句が自由律俳句であるとはっきり述べている部分は見当たらず(見逃しているかもしれないが)、「俳句」という言い方が専らだ。
「難解だとの一言で、句評から一蹴されていることに、私はフラストレーションを感じてきているのだ。」(p108)
「情念を定型化・・(中略)・・私はそういうのだけは、絶対避けたい。」(p175~176)
俳句(短詩)が自由であるべきという信念と、それを分かって欲しいという願いが、「自由律」という言葉が付いていないシンプルな「俳句」として提示していた理由かもしれない。
句集には定型寄りの句も多く有る。
神無月に女いちにん偸みけり
精薄の弟に植える枇杷の種子
玩具犬(トイプードル)そこだけ断層湖となる空間
生死逃るべからず楕円渺々
深海魚の眼になって見る雨の森
少年の腰細すぎる 夏昏るる
読んでいて、とても自由を感じる句集であった。
※なお、上野千鶴子氏の学者としての思想については様々な評価があるようですが、私はその辺りについては門外漢の為、あくまで俳句作品のみに興味があって読んでおります。
また別件ではあるが、『文学を社会学する』(朝日新聞社、2000年)において、沼尻陽三郎氏の自由律俳句である「かげもめだか」(層雲第九句集『一人一境』に掲載)が誤って種田山頭火の句として紹介されてしまっていたとのことであった。その誤りについて、自由律俳句結社「青穂」(私も所属している結社)の小山貴子代表からの指摘にて判明したという経緯が、上野千鶴子氏ご自身の下記のブログに記載されている。
●放哉と山頭火、そして陽三郎 ちづこのブログNo.105(2016.09.01 Thu)
https://wan.or.jp/article/show/6696
私が購入した『文学を社会学する』第四刷(2001年)の中にも、確かに種田山頭火の句として「かげもめだか」があると記載されたままだったので、もしもご興味があって読まれる方は、その点ご注意ください。
加藤知子 句集『情死一擲』より
特に戦争に関する句群には、紙や文字から熱が湧き上がってくるような感覚があった。
冬銀河輪投げのように逝くことも
すいかずら諸手をあげて椅子を捨つ
ひとだまの匂い葡萄を吸うしぐさ
小春日や事あいまいに逢いましょう
冷戦年表継ぎ足す乳房重かりし
人間を狩る冷蔵庫灯るべし
首筋に情死一擲の白百合
夕薄暑どの風向きも異教なる
白百合の背骨重低音に疼く
魂洗う水の繊きに雁渡
一色ずつ虹をはがせば火傷痕
雪山の頭が解けて母のどこが母
神さびの白菜二枚剝ぐ防人
「私かしら」30句 早舩煙雨 ※一部抜粋
本当のわたしは林を歩いている
my true self is
walking in
the woods
真實的我
在林中
走着
------
惑星と惑星を結ぶよう馬洗う
As like connecting
a planet and another planet with a line,
washing a horse
好像把行星跟行星
連接起来
幫馬洗澡
(俳句短歌誌『We』第18号 2024年9月 掲載作品30句より)
※英語・中国語繁体字翻訳は本誌に掲載無し
佐瀬茶楽 自由律俳句集『こぼれ菜』(昭和59年)より、選り好みの句をいくつかメモ。素朴な句群の中に、突然その事象のふところに飛び込んでいくような句が見られた。そしてそのような句は捨て身ではなく、あくまで平静、であった。
風あるけばある
マッチの火に見えるとおい浴衣
つまんで水から食べるいちご
水蓮にきてからだあまる鯉
俳句・詩の形式について、私自身がもっと自由で柔軟でなければならないと思っている。そして、この形式の話の前提として、その芸術形式の中身が問題となる。
俳句を含む芸術を観るときに、整理して細かな判断をしようとする場合には、私は主に真善美の3つの軸の”綜合”で良し悪しを考えている。ただ、真善美といっても厳密な哲学・美学用語として正確な定義が出来るような知識は無いので、暫定として下記のような整理方法に基づいている。
①真⇒真理、偉大さ。(例)超越的存在(の想起)。無限・無。実存。始原。主体、客体、場。正確さ。新しい認識の取得。言語以前・以外。認識そのもの。驚き、発見。
②善⇒倫理、道徳。(例)内容・形式による構築、破戒、基準の問い直し。礼儀。善の直接・間接的な明示や、悪を見せることによる善の想起(反面教師)。政治的価値。プラグマティズム。ナンセンス。
③美⇒感覚快、カタルシス。(例)色彩、映像美。音楽性(響き、リズム、発音)。修辞、字面。共感(意見の代弁、あるある等)。滑稽。自由、権利の行使。独りよがりな美醜。差別、優越感、安心感。性。力。退廃。内容・形式を含む新しさ・古さ。知識欲、開拓欲。
それぞれの軸が重なり合うように存在していて、完全な線引きは不可。例えば、上記①の超越的存在は、それにおいて善と美も兼ねていると定義されるかもしれないし、③の退廃については破戒による善の想起や無の想起などとも言えるからである。
また、具体的な句を上記の軸を用いて観た場合は下記のようになる。
・「閑さや岩にしみ入る蝉の声」ならば、①と③が強く、②はそれほど強くは感じない。
・「咳をしても一人」ならば、③が強く、①が少し、最後に②だろうか。
・「戦争が廊下の奥に立つてゐた」は、①②③のいずれもが、ある程度の強度で含まれるようにも思う。
芸術作品は真善美のどれかに特化してもよいし、全体的に強度があってもよい。ここに、外的な要因として、その芸術を観るときの環境・状況、体調、感覚器の能力、無意識に感じていること、何らかの勘違いなどが加わって、捉えられる範囲・精度・角度が決まり、最終的な判断に繋がっているのだと思われる。
また、多くの場合、鑑賞者側で①~③の基準は異なる場合があるのは当然である。例えば、語彙が豊富で流麗な詩であっても、その詩自体のレベルにより、また、その鑑賞者のレベルや思想により、判断が異なる場合がある。言葉で可能な限り深堀をする為に・芯を捉える為に、必然的に選んだ言葉やレトリックが難解であった場合があっても全く差し支えないが、作者の知識をひけらかすだけに終始して、その対象の事物を射抜いていない場合には、その詩は衒学的な言葉・修辞の掃きだめに過ぎない(その語彙・修辞を用いること自体に別の目的がある場合は除く。例えば、社交目的の句会であったり、その語彙・修辞を使って混乱を招くこと自体が目的の破壊志向の作品である場合など)。鑑賞者によっては、その語彙の豊富さや修辞を快感に感じるひともいるであろうが、内容や目的を見透かせていない限りにおいては、単に鑑賞者のレベルが不足していた為に眺めていた幻想ということだけの場合もある。
上記の判断をする上で、形式とは単なる一要素に過ぎない。俳句である事と芸術である事であれば、芸術である事の方が個人的には重要事項であるので、その一要素に過ぎないものである形式に、足を引っ張られることがあってはならないと思う。
とある美術館に、絵画に立体の物体が取り付けられて3Dに飛び出てしまっている絵があり、非常に面白く感じた。キャンバスから飛び出た物体の影が、白い壁に影を落とし、それも一つの象徴にすら思えた。レリーフの一種というよりは、絵画の延長という雰囲気のある作品で、他の平面の絵画が並ぶ中で異常と感じられた。
だが、絵画という形式についてよくよく考えたら、3Dであるのは当然のことではないかとも思う。なぜなら、油絵でも水彩でも、キャンバスの上に何か物体を塗っているのだから、既に3Dとして飛び出しているのだ。単に厚みの度合いや若干素材が違うだけなのだ。違和感を感じたのは、その形式に対してではなく、自身の思い込みに対してだったのではないか。その意味では形式とは鑑賞者側に存在するのだろうか。また、該当の作品を鑑みると、キャンバスの外に影を落とすようにライトを調整したり、壁の色を検討しているであろうことも、”絵画”という芸術形式に含まれている(含まれてよい)とも考えられる。
そもそも絵画が単なる3Dということも、確定的ではない。絵画に近づいたり離れたりすることだけでなく、光の移動や目・神経の情報伝達の為に、時間を掛けてしか鑑賞し得ないのであれば、絵画も四次元の芸術と言えるだろうか。印象に残った絵画は思い出すごとに多少形を変えて、鑑賞者に徐々に浸透していくことがある。単純に音楽を聴く行為よりも鑑賞に時間が掛かる場合も多々あるだろう。作品とはその存在している実物ではなく、対象となる物と鑑賞行為の関係・プロセス全体のことであると考えた方が良いのであろうか、また、前提として時間を1つだけの次元として捉えるのは誤りという話や、宇宙空間を9次元として時間を追加して10次元・・と言った理論があるという話も聞いたことがあったので、立体であること・時間を経る必要があること等を自分の狭い知識で想定して絵画を見るという行為について定義、判断してよいものかも不明だ。
ほとんどのケースで、私は形式を間違えて芸術作品を捉えているのではないか。絵画を絵画と呼ぶことすら、違和感を持ってよいのではないか。この世の全作品が、実はそれぞれ個別の形式を抱えていて、全く同じ形式の作品など無いのではないか。
一定度合いで標準化された形式があると考えた場合でも、必要があれば形式は拡張したり、突然変化(に見えるだけ?)をすることは普通のことである。新しい形式だったからと言って、元々のよくある形式を問うことは眼目ではなく、副産物的なものであるだろう。その新形式は、たまたま内容にとって必要な形式であったに過ぎず、副次的に形式を問うことになってしまい、また、見る側の認識プロセスを整理し直してくれることに繋がっただけと言えるかもしれない。
集団心理のようなものだと思うが、上記の絵画の例を挙げるまでもなく、俳句の形式はそれほどこだわるものでは無いと思う。というのは、そもそも読者の脳がそれを感じ取ったと思い込むまでの流れで、形式はすでに歪まされているはずである。であれば、なぜ形式にそれほどこだわる理由があるのか。その詠みたい事柄によって、そして技術や物理的・環境的な条件などによって、見合った形式がその時々で変わる(変わってしまう)のが本来は当然なのではないか。
文字で掲載されるときに、フォントや画面(紙面なら紙の質や色あい、PCなのか読書用の電子媒体なのかなど)の質だとか、印刷なのか点字なのかなども関わるし、縦書き・横書きも関係がある。文字として読み取る場合と声に出した場合でも変わってくる。最近なら読み上げソフトも使われるかもしれない。そもそも読者の体調とか、気分とか、その日の気候とかにも関わる。
論理に関わることであれば論文で伝えるのがよいかもしれないし(需要の問題で敢えて映像等の別の手段を取ることもあるだろう)、美しい音色・風景で有れば論文よりも音楽や映像がよいだろう。それと同様に、俳句も内容によって5・7・5で有る必要も特に無いし、季語も入れようがどうでもいい。外国語が含まれてもいいし、分かち書きでも、多行でもよい。別の表現手段(画像や音楽)と組み合わせてもいい。それによって、これは俳句ではないと言われることがあれば、それは必然で出来上がった形である限り、本望ではないか。
俳諧の発句である、ということを俳句の大前提として考えるならば、その句を読む人に想像の余地が多少あるほうがよいし、言葉の組み合わせ・飛躍を用いた句ならば、その飛躍の距離感や掛け算の詩情があったほうがよいのかも、程度の話だろう。(詩情、と言う言葉も曖昧ではあるが・・)
形式は変化して問題無い。拡張しても、削り落としても問題ない。技術発展によって、(画材等の物理的な)素材の発見によって、そして必要があれば、形式は大きく影響を受ける。声が無い動物であれば、唄えなかった(唄われるべきことがあった)。棒が持てなければ絵は描けなかった(描かれるべきことがあった)。紙、ペン、印刷・通信技術がなければ、小説や俳句は作り辛かった。そういうことである。必要さえ有れば、また言葉を忘れて、火の前で踊ればよい。
「あなぼこ」10句 早舩煙雨 ※一部抜粋
蝸牛一秒のなか穴だらけ
a snail -
every second is
riddled with holes
蝸牛, 一秒裡都充滿漏洞
~~~~~~~
画鋲 思案の外のその外の
a drawing pin -
even beyond the outside
of my thought
一個圖釘, 在思考的外面的更外面
(俳句短歌誌『We』第17号 2024年3月 掲載10句より)
※英語・中国語繁体字翻訳は本誌に掲載無し
※2024/11/30英訳一部修正
以前に自分の俳句や過去の有名な俳句の外国語への翻訳を何度か試したことがあったが、しばらくそれを止めていた。
いくつか理由があるが主には2点。
・自分の言語能力的に不足があり、明らかな翻訳ミスが発生しやすい
・句の読み手側の自由を妨げる可能性がある(自分の句を外国語に翻訳することは、一種の自句自解に近い。作者が解釈を加えるのは一読者としての意見に過ぎないが、捉え方によっては権威的にもなり得る。俳句を読むことに習熟している方からすれば、作者の意見を無視することにも慣れているかもしれないが。)
しかし、最近は下記の理由で、もっと気楽に外国語に翻訳してもよいのではと思う様になってきた。
・翻訳した句や詩は、新しい独立した詩であるとも考えられるから、純粋な意味伝達だけのための翻訳と考えなくてもよい(元々の詩だけをもってしても、読み手ごとに、読んだ日時ごとに、読み手とその詩の関係において個々の独立した詩が生まれているとすら言える)
・本当にその句、詩が届いた方がよかった人が偶々この世界にいるとすれば、その方にいつか届く可能性が高まる(元々の内容が伝わるかはどうあれ)
・そもそも自身の日本語の語彙力や文法力が不十分で、自国語ですら危ういのにも関わらず俳句を作っているのであるから、いまさら外国語でのミスなどに気を遣う必要が無い(加えて、日本語を含む言語そのものを完璧に使いこなせる人間が存在するとも思えない)
・あわよくば、翻訳を通じて外国語が上手くなることも期待できる
ということで、気が向いたらまた英語なりを交えて自句をブログやX(旧Twitter)に投稿してみようかなと思う。
一応参考で、萩原朔太郎の「詩の翻訳について」も読んでみる。
※カッコ内は引用部分。朱色は私の意見。
「・・・即ち要するに、原詩を原語で示す以外に、翻訳は絶対不可能だといふ結論になる。
翻訳の可能性がある俳句は、連想の内容が極めてすくなく、詩趣が稀薄である代りに、理智的の説明を内容に有する俳句だけである」
⇒「詩趣」と言う言葉の定義に依る。「詩趣」が単に連想の内容の深さ・広さという意味合いで使われているのであれば、著者の言う通りであろう。しかし、一般的な情緒、趣、読者への感慨・驚きをもたらす可能性、真・善・美を基準とする何らかの”良さ”、といった大まかな意味合いで有れば、必ずしもそうではない。これは当時の俳句が現代と比べると未発達であったという前提があるのであろうが、理知的な説明を内容に有する俳句だからといって詩趣が稀薄となるとは限らない。素朴でのっぺりとした散文や、数学の「1=1」という式などにもある種の感動、詩趣を感じることがあると言えないだろうか。
「もつとも詩の特質は、各の読者に各
の主観的幻想をあたへることに存するのだから、訳詩を通じて、外国人が外国流に勝手なヴィジョンを構成し、勝手な主観的解釈をしたところで、一向に何の差支へもないわけであり、むしろ訳詩の本来の目的がそこに有るとも言へるのである。それ故に本来言へば、詩の翻訳に語学上の詮議は無用で、むしろ訳者自身の個人的主観によつて、自由に勝手に翻案化してしまふ方が好いのである。逆説的に言へば、すべての訳詩は誤訳であるほど好いといふ結論になる。」
⇒同意。すべての訳詩は誤訳であるほど・・というよりは、詩の原文や芸術・あらゆる事象を含めて、感覚的に捉えられる事物は、その読者・感知する側に渡った時点で誤訳・誤読しか存在しない、または正確な知覚や理解が出来ているか確認する方法が無いとも言えるだろう(同様の理由で、正確な理解が出来る希望もゼロではないし、誤読こそ正として見返していくことが普通と捉えれば、絶望する必要も無い。実際に私たちの生活は、そうである。)。
「・・・そこで外国語の詩に就いて、読者の真の知らうと欲するところは、詩の個々の原語や逐字訳的の詩想でなくして、原詩そのものが持つてる直接のポエヂイであり、原詩それ自体の詩的ムードなのである。」
⇒俳句で考えると、字数が少な目であり読者の感覚に委ねられる範囲がとくに広いという特徴から、元の句が持っているポエヂィというものがそもそも絶対的なものではないことも前提として無ければならないか。
「すべての訳詩は、それが翻訳者自身の創作であり、翻案である限りに於て価値を持つてる。・・・訳詩を読む人々への注意は、第一に先づその訳者が、詩人として、文学者として、原作者と同等以上、もしくは同等、もしくは最悪の場合に於てすら、雁行する程度の才能を持つてゐるか否かを見るべきである。」
⇒詩人自ら訳すということについては言及が無いが、詩についてあまり知らないが語学が得意という他の人に変な訳を付けられるよりは、自分で訳した方がまだよいかなと思う。逆に、鴎外による外国文学訳のように、文学を深く理解し、アウトプットも出来てしまう方に訳してもらえるのはその詩と読者にとってありがたいことなのかもしれない。
参照元:https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/48341_35101.html